記事一覧

スリランカ政府の災害支援チームでの通訳を経て、いよいよ東 千恵子さんのこれまでの集大成が花開く。そして出逢った「WaLaの哲学」から得たものとは。全3回

PROFILE東 千恵子さん。ジェームスクック大学大学院理学部修士、ブレーキング工科大学大学院サステナビリティ戦略とリーダーシップ修士、アクションラーニング協会認定コーチ。メキシコの環境ソーシャルビジネス「シエラ・ゴルダ環境グループ」の環境教育オフィサー、「地球を巡る学びの船旅をつくる、ピースボート」企画部国際コーディネータ等を経て、一般社団法人Happier Businessを設立。世界的環境活動家で著名な生物学者デビッド・スズキ氏、「ティール組織」著者のフレデリック・ラルー氏、オーストラリア緑の党党首ボブ・ブラウン氏の通訳をはじめ、国際環境会議での同時通訳など、通訳としても活躍している。



自ら選んだ場所で「やり続ける」。そこで開く次なる扉

 東日本大震災を支援するために来日したスリランカ政府の災害支援チームとは、放射能汚染対策の専門家や医療の専門家などで構成され、また、被災した人の心のケアのための音楽家も含まれた専門家混成チームであった。ここで通訳を担当しながら、6週間余りの日々を東 千恵子さんはテント生活を送りながら、被災地支援に従事していた。そこで目の当たりにした光景は、人と環境への甚大な被害の爪痕であり千恵子さんに大きなショックを与えたのだった。

 その後ごく自然な成り行きとしてピースボートの専従スタッフとなった千恵子さんは、再び海上の人となる。「ここで自分のできることをやっていこう」と思ったのだ。船では、これまでの経験やネットワークをフルに活かして、海外から専門家を呼んで講演やワークショップなどの企画運営をする傍らで、自分自身が主体となったサステナビリティや環境問題についての講演やワークショップを開催。ひたすらこうした活動を4年間、海上で2015年までやり続けた。振り返るといつも千恵子さんは、自ら選んだ場所で「やり続ける」。するとやり切ったときにおのずと次の扉が目の前に現れてきた。


 ピースボートで望まれる国際交流への貢献と、千恵子さんが志向していたサステナビリティを個人や組織、コミュニティにも実装していくための支援との間に乖離を感じ始めたとき、「やれることはやりつくした」と思えた。そして新たな扉が開かれ、一般社団法人Happier Businessを設立する。いよいよこれまで千恵子さんが蓄積してきたすべてが、人へ社会へ開放されゆく時が至った。しかし「そのタイミングで母が倒れ、介護が始まった」。

 母娘の二人暮らしで介護と仕事を必死になって両立しようと、千恵子さんは奮闘した。目まぐるしく動きながらも「当時はいろんなことを考えた」。一番大きな学びとして得たのは「一人の個人も、自己組織化するシステムなのだということ」。何度か登場するこの「自己組織化」について、もう少し説明をお願いしてみた。


個人も組織も地球も、命とはすべて自己組織化する

「私たちが一般的にこういうものとして信じている世界とは、物を分断化して個別のブロックにして、それを操作コントロールできるとする世界観。でも、私たち人間も、生まれてくる赤ちゃんを見ても、人為的につくられていない。体も私たちが意図してつくったものではなく、自然発生的に顕れてくるもの。それは地球とか物理学とか化学などのいろいろな相互作用で生まれてくるわけだが、自然発生するもの」。この一連のイメージを自己組織化と呼ぶのだという。

 自己組織化するシステムというものは、放っておけば本来はサステナブルであるものだ。ところが病気になるということは、自己組織化を邪魔するいろいろのものが介入する結果なのではないか、というスウェーデンで学んだ概念が腑に落ちた。人が本来幸せに健やかに人生をまっとうするには、必然的にサステナブルでなければ立ちゆかなくなる。「組織においても、地球においてもそうだ。これはすべて同じ感覚であり、命とは自己組織化するのだ」と千恵子さんは考えている。



千恵子さんにとってサステナビリティとは?

「私にとってそれは生き方。茶道、華道のような“道”に近い。何道かと言えば、自分自身にも他人にも、人間でない命に対する愛や敬意を生きること。そしていかに生きていくか」。けれど、ことサステナビリティと言うとき、自分との間に乖離を感じてしまうのだけど、と聞くとこう続けた。「地球にも人も、人でないものも動植物とか、もっというと岩石圏、地球には地殻マントルがある。岩石圏とは石やミネラルなどの鉱物がある層。そのうえに生物があって、土とか生き物が生きるレイヤーがあり、さらに大気があって宇宙空間がある。いわゆる生き物でない部分も含めて全部が混然一体となってひとつの命をつくりあげているということ」、この自己組織化のなかに自分をも当事者として生きている感覚を持てるかどうか。過去にはこうした視点に立ったとき、汚染や不健全なものを責め、悲しくなることがあったという。


 けれどその悩みの果てに「生きる限りそうしたことに加担してしまう人間を責めるのではなく、それらも含めて自分とう命を大切にしたうえで、より健全なものにしていくか?という態度の方がサステナビリティだ」とわかったのだった。


世界中で学び、「WaLaの哲学」で得られたものは

 思考し行動することで、現れた扉を開きつづけて今日の東 千恵子という人が存在する。これからのビジョンを聞いてみた。「美しい世界。美しく命がかがやく世界のために、本当の意味でのサステナビリティ、深いレベルでのサステナビリティと、科学の法則に支配されて動く地球という物理的現実を生きながら、自然の原則に基づいた “サステナビリティとはなんぞや” ということを理解共有したうえで、サステナビリティの実装を望む組織やコミュニティに対し、実現していく戦略を立てるための戦略部分を共有していきたい。同時に対話型のプロセスを使って人のなかにサステナビリティが浸透していく支援をしていく。一方でサステナビリティに大切なのは、人間の精神性と人間性の成長。コーチングや対話型プロセスを通じて、そうした支援にも力を入れていくつもりだ」と語った。世界中の学びの場に立った千恵子さんが、「WaLaの哲学」で得たもの。


 「これまで得てきたそれらの感覚に、さらなる理論的な肉付けができた」。科学的側面やシステム思考の観点からの肉付けはできていても、哲学や東洋思想といった、また別の側面での理論的な肉付けができたこと。これからの時代に人の精神性や人間性の成長、個人のエンパワーメントが大切だと改めて実感できたことも大きい。そして、「“WaLaの哲学”に参加している人たちの存在は、自分にとってドライブになった」。そこには、「心のなかに何かしらのひらめき、または葛藤なりを見出し、そこに目を向けて行動を起こし参加している人たちだから」と語る、千恵子さんという自己組織化したひとつのシステムに、私たちが教えてもらえることはたくさんあるはずだ。


取材をしながら、日ごろ抱えていたサステナビリティやSDGsへ対峙する姿勢や概念における個人的な疑問をぶつけると、一つひとつ誠実に答えてくださった千恵子さん。その言葉や姿には、実践者として “道” を生きる人のゆるぎない美しさが感じられました。

オーストラリアやメキシコで学び経験してきた科学的理論に加え、サステナビリティを社会に落とし込む方法を学ぶためにスウェーデンにきた東 千恵子さんの生き方とは。全3回

PROFILE東 千恵子さん。ジェームスクック大学大学院理学部修士、ブレーキング工科大学大学院サステナビリティ戦略とリーダーシップ修士、アクションラーニング協会認定コーチ。
メキシコの環境ソーシャルビジネス「シエラ・ゴルダ環境グループ」の環境教育オフィサー、「地球を巡る学びの船旅をつくる、ピースボート」企画部国際コーディネータ等を経て、一般社団法人Happier Businessを設立。世界的環境活動家で著名な生物学者デビッド・スズキ氏、「ティール組織」著者のフレデリック・ラルー氏、オーストラリア緑の党党首ボブ・ブラウン氏の通訳をはじめ、国際環境会議での同時通訳など、通訳としても活躍している。



「自己組織化」を体現していく実践での学びから共創へ

 「参加型で1講義50分というスタイルは、スウェーデンだけでなくオーストラリアでも同じだった」。国籍、年齢もさまざまな生徒たちは、サステナビリティへの知識の有無もさまざま。ビジネス経験がある層が多数派で、他には「サステナビリティを学びたい」といった人たちが集まっていた。理論と実践を重んじるアプローチでは、実践の内容は実に多彩。たとえばいきなりたいした説明もなくプロジェクトが始まって即席チームが組まれ、短い時間で課題をクリアするものなど、その流れは課外授業においても同様だった。留学生たちをサポートするインフラが整えられていないことがあったのだが、これには驚くべき理由がある。「自分たちで自主的に組織化して行っていく、という流れにするためにあえてそういう余地を残していた。つまり、あえて整えていないというわけ」。生活すること、生きることにまで学びの過程を伴わせる、本気の実践と呼ぶにふさわしい印象だ。

 専攻したプログラムは、地球を自己組織化する有機体、システムとしてとらえていて、そのなかで持続可能な社会を実現するためには人間も競争ではなく自己組織化し協同していくことが大事だ、ということを軸に置いたものだった。「生徒たちも自分たちで自己組織化していくことになる」。かつてオーストラリアで自然のことを学んでいても、やはりそこはアカデミックな世界でそれなりに競争もあれば、物の見方もクリティカル。論文や仕事に対してもクリティカルにものを見る世界であり、自分自身も競争社会に生きてきたけれどもスウェーデンでは「共創だよ、競争じゃなくて一緒につくればいいんだよ、と言葉だけでなくやり方も教わって、世界が180度変わった感覚があった」


居心地の良い場所で自分が貢献できることはない

一緒につくればいいのだと知ると「だから多様性は強みになるのか、とわかった」。それを実感して千恵子さんは帰国する。ここでつい、こんな質問をした。「その日々は居心地が良かったはず。どうして日本に帰る気持ちになったのか?」と。すると、「そう、居心地が良かったのに帰ってきた。このことは実は、すごく考えたことだった。居心地がいいということは、“そこに私がやることはないな”ということだと思った」。さらに、「助けが必要と言うと変だけど、私が一番貢献できそうな場所、それは日本だと思った」と続けた。この選択ができるのは、相当にタフな人であることを物語っている。

帰国の手段は「また通訳ボランティアをしながら船で帰ってきた」。1000人ほどの乗客のうち、10代~40代が30%ほど、多くは年配の方々で、国際交流をしながら現地の暮らしぶりなどを学び船旅を続けた。2ヶ月でさまざまな国を巡り、2010年も終わりに差し掛かる頃、千恵子さんは日本の地を踏んだ。


東日本大震災でスリランカ政府の災害支援チーム担当通訳に

帰国して見渡せば、同級生たちはサステナビリティ・コンサルタントとして起業しており、千恵子さんもその方向で考えていた。けれど、日本企業での特別な勤務経験もなかったので「待てよ?なんの取っ掛かりもないな、どうしていこう」と考えていたまさにそのとき、東日本大震災が起こった。この未曾有の大災害は、日本社会におけるある意味での分岐点となったと言えよう。環境や自然、それらあっての日々の生活、そんな社会に生きることに、まるで初めて人々は向き合うかのような事態を体験した。海外に暮らすことの方が多かった千恵子さんが、震災のタイミングに日本にいたことも必然のように思えてくる。

当時、世界各国からピースボートのボランティアが被災地に支援に来ており、ボランティアチームのバイリンガル・リーダーとして奮闘していた千恵子さんだが、その後スリランカ政府の災害支援チームの通訳を務めることになる。そこには、縁の不思議を感じさせる経緯があった。

 2004年末に起きたスマトラ島沖地震では、スリランカ津波を引き起こし甚大な被害をもたらした。このとき受けた日本の支援にスリランカ政府は恩返しをしたいとの思いから、東日本大震災が起こると、日本のために災害支援省を設立し専門家による支援チームを日本へ派遣したのだ。しかし当時、混乱を極める状況下にあって各国から来る支援チームの受け入れを政府がストップしており、スリランカ政府の災害支援チームの受け入れがピースボートへ引き継がれた。ここで千恵子さんが通訳として選ばれたのだった。

第3回へつづく


5カ国以上に居住し25カ国以上を訪ね、サステナブルな生き方と社会の実現へ向け探求と実践を重ねている東 千恵子さんの足跡をたどる旅。全3回

PROFILE東 千恵子さん。ジェームスクック大学大学院理学部修士、ブレーキング工科大学大学院サステナビリティ戦略とリーダーシップ修士、アクションラーニング協会認定コーチ。メキシコの環境ソーシャルビジネス「シエラ・ゴルダ環境グループ」の環境教育オフィサー、「地球を巡る学びの船旅をつくる、ピースボート」企画部国際コーディネータ等を経て、一般社団法人Happier Businessを設立。世界的環境活動家で著名な生物学者デビッド・スズキ氏、「ティール組織」著者のフレデリック・ラルー氏、オーストラリア緑の党党首ボブ・ブラウン氏の通訳をはじめ、国際環境会議での同時通訳など、通訳としても活躍している。


野生イルカや環境への興味が導いた、真のテーマと出逢う

 この人にいつかもっと話を聴いてみたい、そう思っていた。もっと適切に表現するならば、「語り合ってみたい」だったかもしれない。理由はいくつもある。たとえば、「WaLaの哲学」で同期生として共に学ぶなかで知った、東 千恵子さんの静謐な存在感や「サステナブル」を語るときの、誰の借り物でもない紛う方なきオリジナルの言葉の表現に出逢ったときなどだ。念願かなって取材が実現し、待ち合わせ場所に現れた千恵子さんは、いつもと変わらず自然体そのものであった。

 本人いわく「英語圏で当時、一番学費が安かった」という理由から、日本で中央大学法学部を卒業するとオーストラリアに渡った。そこで海洋生物学を学び、なかでも野生イルカの社会行動と生態学を修士で研究し、その過程で天然資源管理や環境マネジメントについても学びを深めていくという、まさしく充実した時を過ごしていた。ところがある日、そんな日常を大きく覆す出来事が起きる。9.11のテロである。世界中が衝撃と悲しみに包まれたあの出来事は、千恵子さんの人生にも大きく影響を与えたのだ。

ふと見渡すと、共に学ぶ同級生たちはソマリアやルーマニアといった紛争地域から亡命してきた学生が多く、「自分が送る当たり前の日常が実はとても脆く、危険と背中合わせなんだ」との実感を持つようになった。これまで環境保護や野生動物の保護の観点で研究をしていたが、「環境問題と社会問題、紛争問題が自分のなかで根本的な原因がつながってしまった。結局は人間の社会の在り方とか、経済活動の在り方ということなのだと知った」。もともとはイルカや環境に興味があって向き合ってきた千恵子さんが、真のテーマに出逢う。「私が向き合うべきは人間なんだ」と。


サステナビリティを社会に落とし込むために学ぶ日々

そうした思いを抱いて日本に帰国すると、派遣で働きながら環境教育に軸足を移す。NPOのスタッフとして子どもや親子向けに海辺の自然体験教室を開いたり、環境系の議員に向けてグリーン政策が進んでいたオーストラリアへのスタディ・ツアーを組むなどしていたが、「だんだん日本にいるのが窮屈になって」ピースボートの通訳ボランティアへ突如転身を図ると、地球一周の船旅へ出た。ちなみにピースボートとは、各地の人々と現地での交流を行うことで国際交流と理解を図るNGOだ。やがて、協力隊の一員として、メキシコの環境系ソーシャルビジネスの団体へ派遣される。そこでは、「環境教育オフィサーとして、幼稚園から高校生までに対して “サステナビリティとは” ということを教えていた。自分たちの生活をしながらどうやって環境負荷を減らすのか、ということなどを楽しみながら学べるプログラムを作って、子供たちに教えていた」。このとき2006年から2008年。日本ではまだ、“サステナブル” という単語は現在のように使われてはいない頃である。


「メキシコでそうした生活を送るうち、オーストラリアで学んだ科学的知識だけでは物足りなくなってきた。サステナビリティを社会に落とし込むために、サステナビリティの全体像を知りたい。それを社会に実装していくための方法を知りたい」と強く志向するようになった。そこで千恵子さんは、次なる学びの場をスウェーデンに定める。しかし、その前にどうしても行きたいところがあった。

 「スウェーデンに行く前に、人間を何万年も生かしてきた技術、哲学を学びたい」と思った千恵子さんが向かったのは、アメリカ先住民の狩猟採集生活の技術や哲学を教える学校だ。そこでは、一週間ほど、水道も何もない山の中でキャンプをしながら、連綿と続いてきた技術哲学を学ぶ。「文明崩壊後の社会ってこんな感じかしら」と思いつつ、その後の人生に大きな影響を受けた。「文明社会ってすべてが工業的なプロセスで、物の生産や廃棄のプロセスが見えなくなっている。きれいな部分しか見せない。でもこのときの生活で、人間て本当に自然に生かされているんだな、とわかった」。着るものや食べるもの、すべてが循環して生きているんだ、と心から実感することができたのと言う。その実感は、「現代社会では見えにくいけれど、基本的に普遍的なものなのだ」と、腑に落ちたのだった。

 満を持してスウェーデンの地に降り立ったのは2009年。10ヶ月かけて大学院でサステナビリティ戦略とリーダーシップというコースを学ぶ。組織や人を動かしていくためのノウハウを知るためのアプローチはとても面白いものだった。「最初は理論が8割、実践2割なんだけど、それがだんだんと10ヶ月のうちに逆転していく」。参加体験型で学んでいくなか、理論と実践の割合がグラデーション的に変わっていき、50分間という集中がぐっとできる時間のなかで、人種やさまざまなバックグラウンドの異なる学生同士でディスカッションはもちろん、プロジェクトチームを作り実際に地元企業から案件を取ってきて運用していく、などといったスタイルは、千恵子さんにとても合っていた。

第2回へつづく


現在、衆議院解散後の選挙に備え「立候補予定者」として政治活動に励む阿部 司さん。冷静に状況と自身の内を観察し、機会が来たら必ず手にする生き方の理由に迫る。全2回

(1)「若い力が結集して社会の風向きを変えた」。政治活動家 阿部 司さん


PROFILE
阿部 司さん 1982年生まれ。早稲田大学ではメディアサークル幹事長や早稲田祭運営、ベンチャー企業立ち上げなどの経験を持つ。新卒で日本ヒューレット・パッカードへ入社し、大企業のIT変革などを営業として支援する。在籍中に、友人の選挙戦を中枢で関わり当選を勝ち取る経験を契機に政治への高い関心が芽生える。その後、政策シンクタンクに転身し、実務を積み重ねたのち、2020年より日本維新の会衆議院東京都第12選挙区支部長として政治活動に勤しむ。


仕事で仲間と高揚感を共にできなかったことが契機

 

 終身雇用とは無縁、年功序列もなく風通しの良い社風が気に入っていた外資系のIT企業だったが、「リーマンショック以降、企業のIT投資もどんどん冷え込んでいた。相次ぐリストラやある日突然、部署ごとなくなっていたりと、無常を感じる日々」。そんな毎日にあって、仕事よりももっと大きなもののために情熱を燃やした体験が与えたインパクトはよほど大きかったのだろう。しかし、だからといって「あの高揚感を再び」というだけではとてもではないが会社員から転身することはなかった。

 あるとき、阿部さんの担当顧客企業が大規模データセンターを構築するという、莫大な金額の動く案件が舞い込む。社内が沸きに沸き、活気で満ちた仲間の傍らで「何ひとつ高揚するものがなかった。辞め時だな、とわかった」。その後、友人の選挙戦を経験したことで、公共の場に身を置きたいと考えた阿部さんは、政策シンクタンクへ転職をする。元官僚の代表のそばで、リーダー人材育成や政策コンサルティングなどを実地で学んだ。あの日の選挙戦という体験を、まるで復習するかのようにロジックが支えていく。阿部さんのなかで骨組みに血肉が渡り、ナレッジが形成された4年半だった。そして時が至り、2019年の参議院選挙後のタイミングでめぐりめぐって阿部さんに声がかかることになった。


「世界へ自分を投げ込む」感覚を得て、政治の道へ


 以前から阿部さんには「面白く、命を完全燃焼させる人生を歩みたい。それには小欲ではなく大欲を持つことが大事だ」という思いがあった。その考えをさらに鮮明なものとしたのが、政治の道に転じるおよそ半年ほど前に受講した『WaLaの哲学』での学びだったという。もともと、アカデミアを主宰する屬 健太郎とは学生時代に既に面識がある程度であったが、社会人になり友人から誘われた空手道場でなんと再会を果たした。「これも縁」と感じ受講したのだが、現在においても意思決定の参考にするなど、そのときの学びは生きているという。もっともダイナミックに変化したのは「自分の持っている資質や経験を、社会のどのポイントに使ったら世界は良くなるのか?」という視座に立てたこと。自らの内にあった漠とした感慨を『WaLaの哲学』によって改めて整理し直したことで、「自分を世界に投げ込む」ことに一切の迷いが消えたのだという。阿部 司という命をどこに使えば、社会の足しになるか。自分のキャラクター、人間関係力、選挙経験、シンクタンクでの経験などが活きるのは政治というフィールドなのではないか。そう思い至ると、時を置かずに阿部さんは会社を辞めた。


 2021年現在、かつて友人の選挙戦を30歳で同じ志を抱き戦った仲間たちも、8年もの間にさまざまなライフステージの変化を生きている。いわゆる “解散待ち” という今の期間は実際しんどいはずだ。「どこにピークをもっていったらいいかわからないというのは、非常にきつい。チーム、周りの支援者はもっとそうだと思う」。ゴールが決まっているのなら、そこに確実にピークをもっていく戦略を立てられるがそうではない。終わりの見えない状況は、チームを確実に疲弊させていく。時間が延びればその分、お金もずっと切り詰めていく必要がある。士気を高め続け財政面も見ながらの日々、心も折れそうになることもあるそうだが「そうしたら休憩をとる。それだけでまた進めばいい」とほほ笑む。


使命に目覚めて生きる歓びが、すべてを超えていく


 目標に向かって生きている今、不安こそあるが総合的に見たら「決してつらくはない」。大企業で自分でなくとも代わりが利く仕事をするより、たとえ先の見えない状況であっても楽しいと言える。それは命が歓んでいる生き方なのかもしれない。「エゴを捨てるということが、すごく良いと実感している。会社とか、ポジションなどにしがみつくのではなくて、いつのまにか固執してしまっている習性を全部手放してみるとすごく楽になる」。初めての選挙戦がいつ始まるのかも、必ず欲しい結果となるのかも未定であるが、「すべては過程なのでいっときの結果なんかは気にも留めない。自分の欲を追いかけるよりも、社会へ目を向けてどうすれば誰かのためになるのかとか、そういうふうに発想を切り替えることで自分だけの使命感が目覚めてくるから」と語る阿部さんの口調はとても凪いでいて、それでいて確かに胸に響くすごみを伴っているのだった。


1対1で対話をした取材での阿部さんは、演説をしているときの堂々とした雰囲気とまた違っていて、言葉をじっくりと選び物静かで繊細な印象をも受けました。誠実に質問に答えようとする姿からは、志に根差して生きることの素直な歓びが感じられ、ひとつの生き方としてとても素敵に思えました。


(1)「若い力が結集して社会の風向きを変えた」。政治活動家 阿部 司さん

現在、衆議院解散後の選挙に備え「立候補予定者」として政治活動に励む阿部 司さん。堂々と聴衆に語り掛ける姿からは想像のできない、ナイーブな素顔とのギャップの裏には、真摯に自分を見つめ続けてきた日々があった。全2回

PROFILE
阿部 司さん 1982年生まれ。早稲田大学ではメディアサークル幹事長や早稲田祭運営、ベンチャー企業立ち上げなどの経験を持つ。新卒で日本ヒューレット・パッカードへ入社し、大企業のIT変革などを営業として支援する。在籍中に、友人の選挙戦を中枢で関わり当選を勝ち取る経験を契機に政治への高い関心が芽生える。その後、政策シンクタンクに転身し、実務を積み重ねたのち、2020年より日本維新の会衆議院東京都第12選挙区支部長として政治活動に勤しむ。


必死に生きてきた日々が、目前に「機会」となって現れた

 「自分が絶対に議員になると思ったわけではなく、そのときどきに踏み出してきた結果として今ここにいる」と語るのは、現在東京12区で政治活動に勤しむ阿部 司さんだ。阿部さんには、政治に身を投じようとする人たちに特有のある種の押し出しの強さというものが感じられない。このいい意味でのギャップを理解するために、現在の阿部さんの毎日について聞いてみた。

 2020年を半分折り返した頃、声がかかって政治の道へ踏み出し、会社員生活に終わりを告げた。衆議院が解散し、選挙が始まると正式に「立候補者」となるが、現在は「立候補予定者」という身の上だ。ということは、いつ選挙が始まるとも決まっていない不確かな日々を、安定した会社員生活と引き換えにしたということになる。「しかも先月、子どもが生まれたばかりで育児は大変」と言う。必ずや実現したいビジョンがあって政界に身を投じたというのではない人が、終わりの見えない道を選んだ理由とはいったいどんなものなのだろう。


自分たちの力で、社会を変える手ごたえを感じた経験

 立候補予定者、政党の選挙区支部長という立場となり、朝は午前7時から2時間ほど、夕方は18時、19時頃からと、その日の様子を見て調整しつつも日に二度、駅前に立つ。その他に選挙区各地でのポスティングや挨拶まわり、ミニ集会を各地で開催しては支援者を募る。これらの活動はチームで行うものだが、阿部さんにはこの点において経験があるのだ。「もともとこの道に至る転機となったのが、かつて都議会選に出馬した友人を全力で支えて当選したこと」。資金力も地盤もないなか、29歳の若手が始めた無謀とも呼べる挑戦を、阿部さんはいろいろな仲間を巻き込んで全面的に支援し、結果として友人は見事当選を果たした。「一矢報いたと思った」。



 無理だ無謀だと言われるなかで、若者が力を集結して大きく風向きを変えた。「社会を変える可能性を持った人間を議会へ送り出す。これは目指し甲斐のある目標だった」と語り、当時外資系IT企業で会社員生活を送っていた阿部さんに忘れられない経験となったのだ。定石の戦い方など知らず、かえって知らなかったことが奏功したのか、なんでも思うとおりにやれた。言われたことをやる会社員生活と対局にあるような、自分たちですべて考えて実行したことで成し遂げた成果に、阿部さんは胸が躍動するのをおさえられなかった。そこですぐに「自分も政治家へ」とはならず、今の職場を勢いで退職することもせず、2年ほどはその情熱を飼いならしながら、「自分としてどうするべきか?」との問いに対峙し続けたのだった。


絶えず「挑戦」を選択することで命を磨く

 大学生時代の阿部さんにもその片鱗はあった。「授業そっちのけでメディアサークルの代表として芸能人を呼んでパーティーを開いたり、先輩の起業を手伝ったりしていたらあっという間に2年留年していた」と笑いながら話すが、「本当はモラトリアムを延長していたと思う」と言う。「自分が何をしたいのか」、このときも多忙さに気を紛らわせながらも、どうしても消えない渇きにいら立つ青春時代を過ごしている。制限時間ギリギリで外資系IT企業へ就職を決めたのも、変化の激しい世界に身を置くことで挑戦し甲斐を感じようとしたのだ。

 人の来歴とは如実にその人の生き方を語る。「縁あって今、ここにいる」と言う阿部さんであるが、いつもそのときどき、真剣に自分自身を見つめてきたひたむきな背中があったのだ。

第2回へつづく

「個人の物語」と「会社の物語」が響きあう。自己を改革することで働く環境をも変化させることができる。大企業とそこで働く個人との新しい関係を学ぶ。最終回

(1)「いっぱいケガさせてもらって、メチャメチャへこんだ」。JT 執行役員 妹川 久人さん

(2)「組織に個人を合わせる時代は既に終わっている」。JT 執行役員 妹川 久人さん


PROFILE
妹川 久人さん 日本たばこ産業株式会社 執行役員 サステナビリティマネジメント担当。1995年入社。物流、営業を経験した後、財務省出向。その後、経営企画、事業企画などで国内たばこ事業の中長期戦略策定・実現の一端を担う。2015年より人事部、人事部長として新たなHR戦略を率いた後、2020年より執行役員サステナビリティマネジメント担当。


「善いこと」の潮流から取り残されていく存在へ目を向ける

 厳しい社会変化の只中でグローバル化と事業領域の “選択と集中” によって独自の進化をしてきたJT。だからこそ目指すべき地平があり、それこそが妹川 久人さん率いるサステナビリティマネジメントだろう。「世界的に “善いこと” をやっているぞ、という潮流のなかで違う形で取り残されていく人たちもたくさん出てくる。それは看過できない」。チーム内で日々の議論は尽きなく、「今日(こんにち)的な共通善、善という言葉を使う時点で立ち止まるものがある」と言う。たとえば美意識。そこにある豊かさはどう考えるべきなのか。「そこに行き着く前の段階で課題が手一杯だから、と気づかなかったことにしていいのか」という想いが、JTを主語に置き換えて生きてきた妹川さんらしい。


 個が個であるために、自分が自分らしくあるために、“真善美” のうち “善” において一定以上の充足が求められているのが現在であるが、“美” の領域で個性の色が開花するものなのではないか。あるいは他者にとっては美醜でも本人にとっては真なのかもしれない。「だから僕らが目指すのは、そこに光を充てて課題感を持ち、新たなテーゼを唱え、かつそれに真摯に取り組むことだと考えています」としながら、「でも、人類の責務、まだそこに至る手前で手一杯ではなかろうか」と付け加えた。本当はみんな、気づいていながらもここに触れることの厄介さを予感するから話題にすることを避けているテーマに思える。だからこそ妹川さんをして「まあまあ破壊力をもって可視化される課題がそこには存在している」と言わしめるのだろう。さらに妹川さんは、別の見方から解説してくれた。


JTが着手することの意味。手がかりは「人」

 「世の中は便利になる。人によってはその便利さに追いつけなかったとしても。ただ、便利さと豊かさがイコールでないことはもうみんなわかっている。豊かさの定義も人や時代、環境によって変わるものだし。豊かさ、あるいは自然科学的な観点、人文学的観点での美しさが、ここ20~30年で隅に追いやられてやしないか」と警鐘を鳴らしつつ、ふと微笑んでつづけた。「でも本当は、人ってそこで生きているはずなんですよね」。

 例えばSDGsもいわば “共通善” であろうが、ヒューマニティーに依拠した概念が罪深きものとして追いやられてしまってはいけない。「僕はもう少し、ヒューマニティーに重きを置いた解釈をしたいと思っているし、不足しているのであれば、今後そういうところに光が当たると信じています」。サステナビリティマネジメントの担当になって1年が経つ。“真善美” の見極め 、“共通善の改革” 、JTという企業が着手することに意味があると言えよう。妹川さんの、“人” に焦点を充てた考え方に、人事部時代の影響は大きい。そしてそのとき、『WaLaの哲学』と出逢っている。

「自分自身をえぐる」プログラムでの化学反応

 屬 健太郎が主宰する社会人のためのアカデミア『WaLaの哲学』を人事部長時代に知る。プログラムを聞いて好感触を得た妹川さんは、通常の講義と別にインハウス型での開講も並行して試すこととした。本当に、お試し、が好きらしい。インハウス型は、JTの3部署連合で行い、「それぞれの良さがあった」とのことで、自身でも実際に受講をしてみると「知のシャワーを浴びることの心地よさ。また、単なる講座ではなく、“自分自身をえぐる” こと、壊して再構築するプログラムに共鳴しました」と言う。日頃から、「ちょうど僕らが置かれた環境、シチュエーションにおいては一回リビルドする局面というのは、ほとんどの人間に必要なこと。そのためのひとつの手段として意味がありそうだ」と思ったと言う。現職に就いても社員に声がけしているそうだが、その際、妹川さんは次の3つのレイヤーの人財に声掛けしてみた。「部長などシニアレイヤー」、「マネジメント職に至る前後世代」、そして「社歴の浅い層」である。


「社会人経験のバックボーンも違う、三者三様の背景を持った人たちに体験してもらい、その個々人の組み合わせで、どんな化学変化が出るか楽しみにしている」と語る。

 25年に渡り、そのときそのとき、不器用であれ徹底的にやり抜いた姿を、会社は本人に気づかれなくても寄り添い続けてくれた。会社を主語に置き換え、いつしか自分事と捉えるようになると会社の外へと意識が拡大されていった。そこで得る気づきや問題意識を自己改革のごとく取り込むことで、今後に活かす。妹川さんの歩みからは、大企業と個人の新しい関係が見えてくる。


自分のなかにどれだけ多様性を持てるか

 「例えば、似た者同士のタレントが揃う組織は一見すると強くて生産性も高く、馬力も出せるかもしれないが長続きはしないでしょう。強み弱みがあって違うもの同士で補完しあえる組織の方が、結果として長く続いてバリューも出せるはずです」。そのためにも、「早く同質性から卒業しないと。『WaLaの哲学』 で僕が気づいたのは、“個が本来持つ個” であり続ければ同質の中においても多様性の一翼を担うかもしれない。けれどもうひとつ、自分のなかに多様性をどれだけ持てるかが大事なことでしょう」と語る。妹川さんは他人から見た自身のペルソナを否定せずに受け入れ、自己に統合していくことにしている。

 「僕が大事にする僕のペルソナ以外に、例えば部下から見た僕のペルソナは部下の数だけ存在する。それらを統合するだけでなく、使い分けることも必要」。なぜなら、自分という存在は、自分が認識できるレベルで完結していないからだ。生きるための目標を聞いても「結局は誰かに存在を求められ続けることに尽きます。“冥利” というやつでしょうか」とする妹川さん、信託しあえる存在と共にシステムの一部であり続ける限りにおいては「自分がどう思おうが、人が創ってくれたペルソナが存在しているのであれば、そこに意味はある。そのペルソナを否定しない方が、選択肢が増えるでしょう?」と締めくくってくれた。

 

「気持ちは32歳のまま」と笑う妹川さん、「楽しいことがあったら教えてほしい!」とのこと。普段から誰とでも活発なディスカッションをし、人も自分も社会をも固定しない柔軟さが印象的でした。


(1)「いっぱいケガさせてもらって、メチャメチャへこんだ」。JT 執行役員 妹川 久人さん

(2)「組織に個人を合わせる時代は既に終わっている」。JT 執行役員 妹川 久人さん

人事部長時代、守りの採用を避けて “面白い才能” に出会う風土をつくった。会社を自分事と捉えるからこそ、建設的批判的な視点で観察していく。第2回

(1)「いっぱいケガさせてもらって、メチャメチャへこんだ」。JT 執行役員 妹川 久人さん

PROFILE
妹川 久人さん 日本たばこ産業株式会社 執行役員 サステナビリティマネジメント担当。1995年入社。物流、営業を経験した後、財務省出向。その後、経営企画、事業企画などで国内たばこ事業の中長期戦略策定・実現の一端を担う。2015年より人事部、人事部長として新たなHR戦略を率いた後、2020年より執行役員サステナビリティマネジメント担当。


世の中の変化をダイナミックに自社採用へ投影

 「こんなに常識って違うのか」。妹川 久人さんが人事部長時代にいろんな世代に話を聞きに足を運び、とりわけZ世代の若者たちに接したときの感想だ。かつて、「まだまだ狭い視界で生きていた」と語る妹川さんは、「自分のこれまでの体験や常識なんて…?」という疑問が起点となり、少しずつ社外へと意識を向け始めると、一層「JTというのを自分に置き換えて主語にしてみると、いろいろと、またこれまでとは違った “大丈夫かな?” ということが見え始めた」 のだった。会社員人生の前半戦は、多くの人がそうであったように血気盛んに上司にもぶつかっていく。しかし、この会社には、徹底的にやり抜く姿をいつも見てくれている誰かがいてくれたことはわかっていた。「不器用かもしれないけど、一人ひとりに寄り添おうとしている会社。これが人事での改革でも大切にした想いだ」とし、「個人を大事にする」、「個人にどう寄り添えているか」を新たなHR戦略の基本線に敷いたのだった。


 「組織に個人を合わせる時代はもう終わっている。むしろ、いろんな個人・個性に組織が合わさっていくというように、大きくシフトチェンジするべきときにある」。躯体の大きい企業でそれが可能なのか?と問うと、「いや、大企業だからこそそう思えた」と答えた。それはシンプルな問いから始まる。建設的批判的に考えてみたとき、こと “人事” の領域で観察してみるなら、人事制度も人材マネジメントも基礎設計は20世紀の右肩上がりで成長していた時代のものがベースであったからだという。「21世紀に入って、仮に日本ひとつを取っても、総人口のピークアウトを迎え、人口低減モデルに変わっていて環境も大きく変化した、いわば社会課題先進国である。それにも関わらず基幹人材マネジメントシステムが同じものであるはずがない」。さらに「しかも、AからBへ世代がごっそり変わるのならBに合わせてシフトすればいいだけの話。ところが異世代同居だから面白い」と続けた。


 個人の多様性や就労観にはいろいろな価値観がある。そこで妹川さんは、「“一見” これまでのわが社には合わないかもしれない人、に徹底的に会いに行きました。半分開き直りもあったかな(笑)」。そこには、今日明日の会社都合に合う人財を集めて同質性をつくりあげることは、会社の将来性を考えると危ういことだという考えがあった。これは配下の社員たちにも「いい意味で、困るような人を連れてきて」という指示となる。こんな型破りなミッションを飛ばす部長、孤軍奮闘にならなかったのだろうか。「当時のメンバーはみんな、戸惑いもあったかと思うが、僕を支えてくれた。迷ったら今までと反対のことをやろう、というムードは醸成されていた」と言う。変化のために、進化のために、という旗印のもと、世の中の変化を肌で感じながら一見型破りだが、このうえなく「JTのDNA」がさく裂した人事部が生まれていった。

“全乗っかり” スタイルで組織コンディションのタクトを振る

 2021年現在、そうした採用はどう効いてきているのか。「その結果をどう評価するか、を語るにはまだ少し時間が要るでしょう。個々人が、少なくとも地に足がついてバリューを出せていると認知されるのは、人によってさまざまであろうから」とのことだった。また、採用に留まらず、さまざまな変容を想起しつつも、妹川さん流の方針を打ち出すまでに、本当に適しているのかを1年間観察することに徹し、メンバーが自発的に言うことすべてにまずは「乗っかる」ことで組織コンディションのタクトを振っていった。今は入り込むべきとき、逆にここは引くとき、と「組織も個々人の集まり。一人でも異動があったら、僕に言わせればまっさらに戻る。じゃあ、そんななかでどういうふうに組織の温度感をつくるのか。役職の文脈では、どういう距離感での関わりを持っていくべきか」と、秒単位で変わる組織の温度を肌感覚で調整していった。“組織に個人が合わせる時代の終わり” と語った視点は揺るがない。けれど、「あなたにやらせる、合わせるよ」と言うのはある種の人には恐怖かもしれない。なぜなら「これは健全な大人の関係だよ」ということを前提にした組織論だからだ。


サステナビリティ “マネジメント” への強い想い

 人事部での改革に目途がつくと、サステナビリティマネジメントへと軸足を移す。人事部長時代の妹川さんの上司の担当役員と、「“サステナビリティ”を束ねる・司るような部隊が必要になるでしょうね、と会話を交わしたことを記憶しています」。その後、その部門が新設され、後に自身も担当役員に就くことになったのだが、「マネジメントと付くことが僕のなかでは非常に大きな意味を持っている」とのこと。サステナビリティマネジメントとすることで、「例えば、社会で “善かれ” と言われていることに対しリアクティブに対応し会社にインストールするだけならば、せいぜい20点か30点止まり。そうではなく、これからの “善かれ” をどう見極めて、あるいは創出し、どう自分たちに置き換えて武器としていくか?」まで考えることになる。ある意味、今はまだ認知されていないものをどうやって新たな価値観として創り出していくか。「どんどんそちらに舵を切っていければ。そうしないと、長い時間軸のなかでは、今日的な“善かれ”への対応は一過性のブームに過ぎないかもしれないから」。

 「地球とか自然とか、そのなかで “生かされる我々” という前提があると考えています」としつつ、まなざしが鋭くなる。JTが、JTだからこその体験と考え方が込められているのだ。

第3回へつづく

(1)「いっぱいケガさせてもらって、メチャメチャへこんだ」。JT 執行役員 妹川 久人さん

基幹事業へ向けられる社会的な厳しい目、クライシスを契機にいつしか会社は自分事と化した。一人のキャリアの軌跡が、会社の変化と響き合う理由に迫る。全3回


PROFILE
妹川 久人さん 日本たばこ産業株式会社 執行役員 サステナビリティマネジメント担当。1995年入社。物流、営業を経験した後、財務省出向。その後、経営企画、事業企画などで国内たばこ事業の中長期戦略策定・実現の一端を担う。2015年より人事部、人事部長として新たなHR戦略を率いた後、2020年より執行役員サステナビリティマネジメント担当。


組織の温度をつくる、きっての「マエストロ」誕生前夜

 その日、取材のために訪問したJTのオフィスは移転してまだ数ヶ月であり、フロアいっぱいに自然光があふれ、さながら開放感と穏やかな躍動感を感じさせた。多忙な身の上ながら、サービス精神満点に撮影の協力をしてくれたのが、日本たばこ産業株式会社、JTの執行役員でサステナビリティマネジメントを担当する妹川 久人さんだ。にこやかにユーモアをもって取材に入る「気持ちの入り口」が妹川さんによって築かれていたことに気がつく。そう、妹川さんは終始ご自分のマネジメントスタイルを「タクトを振る」と表現していた。

 おそらくは、「マネジメントスタイル」などと呼ぶと修正が入るかもしれない。「秒単位で変わる組織の温度をどういうふうにつくるのか」という問いに向き合う姿は、いつの間にか本当に楽団を指揮するマエストロのようにも見えてくる。

 

 現在執行役員としてJTの経営に参画する妹川さんを語るうえで、前提としてJTについて理解する必要がある。戦後の公共事業体の一つであった日本専売公社からたばこ事業などを引き継ぐ形で1985年に設立された同社は、現在、たばこ事業をはじめ医薬事業、加工食品事業を展開している。たばこ事業はM&Aを含めグローバル展開を進めているが、喫煙に対する昨今の環境変化は衆目の一致するところであろう。そうした時代の只中で、サステナビリティマネジメントを担当するということは一体どういうものなのだろうか。


“たばこ産業” に対する風向きの変化で会社も転換点へ

 「1995年にJTに入社していつの間にか25年経っていた。自分ではまだ気持ちは32歳くらいに過ぎないと思っていますが、その間いろんなことを体験させてもらいました。社会人人生の半分は企画をする側、あるいは企画をしてさらにそれを実践に落とし込むといった、プランニングの部分が主となっていました」と自身の来し方を振り返る。本稿では特に、“たばこに対する社会の声をより切迫感を持って感じ始めた頃” の妹川さんに注目してみたい。

 “たばこ産業” に対する厳しい目が向けられ始めた当時、妹川さんは30代前半にあたる。行政も巻き込んだ渉外系の仕事をしており、国連の下部組織であるWHOでたばこの条約に関する議論が始まっていた当時、「これをいかに合理的なものとしてちゃんと整えてもらえるか? “たばこ産業” をどう考えていくか?」という問いとセットで、「いい経験をさせてもらいました」と語る。このとき、会社の事業領域は90年代後半から始まった “選択と集中” により、たばこ事業を中心としたグローバル軸と、新たに “集中” 側としての医薬事業、加工食品事業などが育ち始め、2000年あたりからは主にこれら3本柱で推進されていた。「僕のなかで一番大きかった経験のひとつは加工食品事業にまつわるものでした。非常に大きなクライシスマネジメントの経験です」。当時経営企画部にいた妹川さんは、世間を騒がせた冷凍食品の全品回収に立ち会う。「立ち会うというより、本丸でタクトを振る側にいました」と言う。社の転換点において、戦略的集中事業のひとつであった食品事業での問題だ。当時大きくニュースにもなり、その頃の心境を想像してこちらが苦しくなる思いがするほどだが、実際どんなことをしていたのだろう。



「本社で見ている景色」と「現場で見ている景色」が違う

 「情報があまりにも多く、不確実な情報もたくさん入ってくる。どう処理したらよいのか?どうダイレクションすべきか?という点において非常に苦労をしました」。回収するだけでは当然済まされず、コールセンターを立ち上げてお客様へきちんと情報提供をしていく局面をも危機管理本部側の立場で任された。別棟のフロアを貸し切って臨時のコールセンターを立ち上げたはいいが、人員の配置の仕方はおろか、食品のクレーム対応の経験者もいない。「インフラの早急な整備は無論、例えば社内中の部室から応援者を集い、経験したことのない人たちに電話を取って事情を聴いてもらい、むしろ経験者にはマネージメント・フォロー側に回って頂き、時間との闘いのなか、責務としてこの環境を整えることも、そのひとつでした」。

 あるときふと、妹川さんのなかで「(当時の)虎ノ門本社で見ている景色と、現場で見ている景色が違う。現場の有志が現場判断で次々と体制を作り上げていく中、本社からは私が現場感のない指示を出して混乱させていた」 ことに衝撃を受ける。この板挟みになって、見えていないところで「いわば小僧がタクトを振り」、「いっぱいケガさせてもらった」と今、振り返る。会社がこれらの混乱を治めるために執った決定は、若い妹川さんにとっては非情なものだった。「より危機管理を盤石なものとするため、自身は緊急対策室から外された」。


 この非情な仕打ちに打ちひしがれ、内心は激高し、「え!?なんでおれに責任を押し付けるの?くらいにしか、そのときは受け止める器がありませんでした。けれど、この問題から会社が前に進むために必要なことだったと思えるようになりました」。この頃が妹川さんにとって、いわく「会社人生でかなりへこんだ時期のひとつ」であった。そして、「乗り越えたというより、時間が解決してくれた。自分のプライドとか、自分のバイアスを崩してくれる例が人生には結構あるものだなあ」と冷静に過去を眺めながらも、30代当時の妹川青年は「不遜な態度をしたりね(笑)上司とよくケンカしていましたよ」と言うのだから、現在の視点を獲得していく過程にもがぜん関心がわいてくる。


第2回につづく

「ヒューマニティーを稼働ロジックにした新たなビジネス」として、高山さんは会社と離れたチャレンジをしている。その想い、社会や私たちへの愛にあふれたメッセージ。最終回

(1)「共感が自分を変え、やがて社会を変えていく」。エーザイ㈱ 知創部フェロー 高山 千弘さん

(2)「世の中を変える、ではなく自分を変える」。エーザイ㈱ 知創部フェロー 高山 千弘さん



PROFILE
高山 千弘さん エーザイ株式会社 執行役員 知創部 部長、現ナレッジクリエーション・フェロー。医学博士 経営学修士。1982年東京大学薬学部卒業後、エーザイに入社。1992年海外へ留学、英国にてマンチェスター大学MBA(経営学修士)を取得。1994年米国勤務にて治療スタンダードとして世界初のアルツハイマー病治療剤の臨床試験、FDA申請、承認を担当。1998年日本に帰国後、同治療剤の厚生労働省への申請、承認を統括する。責任者として、普及にとどまらず、アルツハイマー病などの認知症の社会的な疾患啓発活動と、受診・診断・治療・介護において認知症の人とご家族の支援を目的とするソーシャル・マーケティング活動を統括する。


知創部での知見を活かし、ベンチャーでの新たな構想

 高山 千弘さんは現在、エーザイの仕事とは別に、対象を難病の方々に向けた新たなベンチャー企業を興して活動をしている。「難病の方々に対してどういう方法が良いのか?と考えたとき、方法論がベンチャーでないと成しえないものだった」と言う。事業内容は、アプリを開発し、新しい診療体系としての受診スキームを構築するものだ。アプリを用いて、患者は自ら日々の詳細なデータを記録していき、医者とシェアすることができる。医者は共有されたデータを統計的なものとして利用できるため、患者の状況を即時に把握することが可能だ。「そうすれば、治療方針もすぐに判明するし、きめ細かい遠隔診療をも実現できる」とし、従来の遠隔診療と違い、既に蓄積された豊富なデータをもって診療をするため、患者ごとに適切な治療方針が立てられるというわけだ。

 ここでも高山さんがエーザイの知創部で培ってきた知見が生きてくる。「診療だけに限らず、生活まわりなどクウォリティ・オブ・ライフを向上させるソリューションも見いだせる。もっと豊かにしよう、という発想が生まれてくるからだ。患者様同士、患者様のお母さん同士というコミュニティも存在するはずなので、その連携がうまくできるようにしていくつもりだ」。これは医療サイドでも同様で、コンソーシアムをつくれば医者同士でのデータのやり取りが可能となり、新たな治療法や解決策の発見にも期待ができる。将来的には賛同する企業から資金を集めることも視野に、「これを、最終的には全体をひとつの経済圏としていく構想で動き始めている」。

 経済圏というのはお金の面というよりは、「“感謝の経済圏”だ」。患者から医者へ、患者の親同士、医者と医者の間で、感謝の気持ちを表す方法論をこのスキームに組み込こむことで高山さんは、難病患者、家族への活動をさらに次世代型へ昇華しようとしている。「ヒューマニティーを稼働ロジックとして、資本主義や市場原理にビルトインしていくという、まさにそのことを今、ベンチャーを通してやっていることだ」。

「エラン・ヴィタール(愛)」を原動力に、開いた社会とは

 “個” が閉じた社会では、支配や防御で互いに拮抗している。その状態を続ける限り、貧困や格差は生まれ続ける。これを解決していく最初の一歩が、開いた社会にしていくことだと高山さんは考えている。手がけているベンチャーでの活動は、そのひとつの解決策の提示と言えるのではないか。では、社会を開いていくとは、どうしたらよいのだろう。

「エラン・ヴィタール、愛を原動力として我々人類は変わっていかなくてはならない。そう、知性を超え、直観に向かって」。人に対して愛情と思いやりを人間性原理のヒューマニティーとして共感したとき、「我々は同じ地球のなかで、地球のシステムの一部として自分たちがいるのだと考えられるはずだ。そうしたとき、人類75億人はみんな地球の同じ仲間であり、共に地球を支えていこうという意識になっていく。そこには、誰が勝ったとか負けたなどはなく、貧困や格差で苦しむ人たちに手をさしのべることはごく自然の営みとなるだろう」。

 格差に対してベーシック・インカムを与えればいい、という声があるが、「本質的には愛だ。愛をベーシックにしなければ解決などしない」と語る熱意が伝わってくる。さらに、「人というのは、内在的自己と外在的自己とがある。どうしても、資本主義の経済合理性を追求するために、僕らは外在的自己になりきってしまって、自分の評価を高めたり、エゴを発揮したりしてきた。孟母三遷の教えのように、愛情を子に与えるのではなく、子どもが持つ素晴らしい内在的自己に気づかせることこそが慈愛なのだと思う」と続けた。


 では人類が今後、内在的自己を開花させる方向に向かうことで開かれた社会が実現するとしたら、企業の在り方も問われるべきだ。しかし、「企業のCEOたちが変わらないので、悩み葛藤する若者を僕らは応援しなくてはいけない。それが『WaLaの哲学』ということ」。こうした社会の到来は、高山さんの夢なのだ。


まず自分が動くこと。 “知識創造理論”を手掛かりに

 最後に、企業の枠を超えたたくさんの後輩たちへメッセ―ジをいただいた。

「今、自分が “個” を開く、というところから実践してほしい。そのときにポイントとなるのは、人と人との関係性が自分を変えていくということ。僕が望むのは、“今、助けを求めている人” と出会うこと(共同化)で共感から気づきをもらってほしい。もし、自分が社会を変える原動力となりたいのなら、いろんな気づきをもらって、その方のために努力していくことで “個” は開いていく。

 僕はビジネスを否定しない。たまたま会った人を助けるだけならボランティアだし、きりがない。そこからビジネスに巻き込んで、もっと多くの同じ環境や境遇にある方に対してどうすればいいか?を考えれば、ヒューマニティーを稼働ロジックにした新たなビジネスが誕生するはずだ。もし今の勤務先に失望していたとしても、文句を言っても仕方がない。まず、自分が動くことだ。その道案内に “知識創造理論” を学んでほしいと思う。自分一人の力では限界がある。当然人を巻き込むのだけど、全員が共同化していることが大原則だ。僕は、14年経験したなかで同じ想いの組織や人が集い、ソリューションを見出そうという連結化にひとつも失敗がなかった」。


 昨今、“共感”という言葉をよく耳にする。しかし、高山さんの語るそれが内に秘める、パワーと情熱や愛を感じるとき、一身を投じ、追求してきた人が発するからこそ言葉に魂が宿るのだと再認識した。


高山さんの語る言葉のすべてに、「新しい社会の実現」を信じて行動し続ける人の真実がありました。我々後輩たちは、そこから何を学び、そして自分を変化させていけるでしょうか。

お話に出てきた野中 郁次郎氏による「知識創造理論」や、エーザイの事例も紹介されている書籍「ワイズカンパニー」も参考図書としてお薦めいただきました。

(1)「共感が自分を変え、やがて社会を変えていく」。エーザイ㈱ 知創部フェロー 高山 千弘さん

(2)「世の中を変える、ではなく自分を変える」。エーザイ㈱ 知創部フェロー 高山 千弘さん

社員全員で“知識創造理論”に取り組み、これを率いるエーザイ㈱の高山 千弘さんが、屬 健太郎氏主宰の『WaLaの哲学』のどこに共鳴するのかを聞いた。第2回

(1)「共感が自分を変え、やがて社会を変えていく」。エーザイ㈱ 知創部フェロー 高山 千弘さん


患者と過ごすことでトランジションが起きる

 「利益を追求しないということは、言い換えて “エゴをはずす” ということだろう」。高山 千弘さんが勤務するエーザイは、製薬企業でありながら「薬はOne of themに過ぎない」と断言する。その潔さにはもちろん、企業理念の “ヒューマン・ヘルスケア” に基づいた考え方があり、共同化において病気の方とふれあうことで患者の想いを暗黙知として受け取ると、「この方の憂慮はなにか、本当に望んでいることはなんなのか?」という思いが自然とわいてくるはずだ、と言う。「そのとき薬はひとつのツールでしかなくなり、患者様本人ですら気づいていないことを我々がソリューションとして提示していくことができるはずだ」。

 こうした考えを実際に企業のビジネスとして行ってきた多数の実績が、高山さんの確固たる言葉の強さにつながっている。例として、アルツハイマー型認知症薬を米国で臨床試験、FDA申請から承認まで担当したのは高山さんだった。

 「僕は当初、認知症の方は何もわからないだろうな、感情もないのだろうな、と思っていた」。しかしその予想は実際に患者と過ごしてみると見事に裏切られた。感情豊かで人間らしい姿に触れ、「まさにトランジションが起きた」と語る。患者との出逢いがそれまでの自分から180度の変化を起こす。「自分がもし変わるとしたら、患者様との出逢いが変えるのだと知った」。エーザイでは、全世界にhhc(ヒューマン・ヘルスケア)マネージャーが存在し、ネットワークを講じて同じ考えのもと「患者様のために」日々の業務をつくっていくシステムが機能している。


閉じた“個”を開放することで企業を内から変えていく

 「僕が健太郎さんの『WaLaの哲学』にバックアップで参加しているのは、こういった考えの企業をもっと増やしていきたいからだ」とし、多くの企業が経済合理性を追求することで疲弊してしまう “働く人” たちへ向ける、高山さんのまなざしは優しい。「人類にプラスの貢献を果たしていくような企業をぜひとも増やしたい。そう考えるとき、企業の中の人材から育成していく必要がある」。これこそが、高山さんが東奔西走しながらもこのアカデミアに時間を割く理由なのである。「自分が制度のなかで言われたことだけやればいい、とい考えてしまうのは “個” が閉じた状態。そうではなく、もっと開放してあげること、十分に共感の場を与えてあげること、“個” が開くにはそれが必要だろう」。では具体的にはどうすればよいのだろうか。


次へ向かうプロセスの場をシェアする場

 「人と人との出会いに尽きると思う。そのときに、“誰が今、一番助けを求めているか?” というところから考えてみるといい」。高山さんが知創部で体現してきた “知識創造理論” と、『WaLaの哲学』による個へ迫るアプローチには共鳴するものがある。特に高山さんが同調するのは、「どういう態度で、どうすれば“個”が開く状態へ進むか、『WaLaの哲学』の内容は具体的にその部分へ切り込んでいる」点にあるとし、講義が進むほどに深く参加者の心のなかの状態にまで落とし込んでいき、参加者と分かち合い、「どういうふうに未来をもっていったらよいのか?」という命題に取り組む。「これはもう、次へ向かうプロセスをあの場でシェアしているということに他ならない」。


 高山さんが期待するのは、ヒューマニティーを稼働ロジックとして搭載した新たな企業の登場だ。資本主義のなかで鎖に縛られた企業ではなく、「こうした新たな企業が続々と生まれていくことで社会が変わると信じている」。野中郁次郎氏のもと、エーザイが長年さまざまな企業に “知識創造理論” を伝え、アドバイスをしてきたことを『WaLaの哲学』ならば組織的な実践が可能であるとする。しかし本当に高山さんが「将来の希望」と言う、新たな企業が登場し社会が変わることは夢物語ではないのだろうか。そもそも、エーザイだけが特別優れて先見性を持ち、実践できる企業だった稀有な例と言えなくはないのか。


「世の中変わります。あなたは変われますか?」

 エーザイの現社長である内藤氏が社長になった際、社員に対してこう投げかけた。「世の中変わります。あなたは変われますか?」と。おそらくその時点では戸惑った社員が多かったはずだ。そこで内藤社長が採った行動こそが、患者とふれあうことだった。

 少しずつ認知症の人のなかに入っていき、お世話をする、啓発セミナーを行う、これらを徹底して進めていった。「世の中を変えますと言う人はいるが、そもそも自分というのは、その“変えるべき”と思う世の中のシステムの一部だ。ということは、自分も変わらないと世の中は変わらない」。ところが多くの場合、“自分を変える” とは言わずに “世の中を変えます” と言いがちであることが、問題の解決にならない理由だと続けた。

 通常、製薬会社では処方箋を切る医者を最優先とするものだが、このとき内藤社長はそれを患者と定めた。「患者様のために自分が存在していて、その方々のために自分が努力していく」。これがエーザイの活動であり、高山さんが「新たな企業の登場」を夢ではないと考えるに足る、十分すぎる理由なのだった。

第3回へつづく

PROFILE
高山 千弘さん エーザイ株式会社 執行役員 知創部 部長、現ナレッジクリエーション・フェロー。医学博士 経営学修士。1982年東京大学薬学部卒業後、エーザイに入社。1992年海外へ留学、英国にてマンチェスター大学MBA(経営学修士)を取得。1994年米国勤務にて治療スタンダードとして世界初のアルツハイマー病治療剤の臨床試験、FDA申請、承認を担当。1998年日本に帰国後、同治療剤の厚生労働省への申請、承認を統括する。責任者として、普及にとどまらず、アルツハイマー病などの認知症の社会的な疾患啓発活動と、受診・診断・治療・介護において認知症の人とご家族の支援を目的とするソーシャル・マーケティング活動を統括する。

(1)「共感が自分を変え、やがて社会を変えていく」。エーザイ㈱ 知創部フェロー 高山 千弘さん


企業の最前線をひた走る各界のビジネスリーダーたちが通う「WaLaの哲学」の世話人、エーザイ㈱の高山 千弘氏。超多忙な日々にあって後進を支援する思いを聞いた。全3回

PROFILE
高山 千弘さん エーザイ株式会社 執行役員 知創部 部長、現在ナレッジクリエーション・フェロー。医学博士 経営学修士。1982年東京大学薬学部卒業後、エーザイに入社。1992年海外へ留学、英国にてマンチェスター大学MBA(経営学修士)を取得。1994年米国勤務にて治療スタンダードとなる世界初のアルツハイマー病治療剤の臨床試験、FDA申請、承認を担当。1998年日本に帰国後、同治療薬の厚生労働省への申請、承認を統括する。責任者として、普及にとどまらず、アルツハイマー病などの認知症の社会的な疾患啓発活動と、受診・診断・治療・介護において認知症の人とご家族の支援を目的とするソーシャル・マーケティング活動を統括する。


悩みながら真摯に歩む後輩たちを支援する

 冬の日暮れは早い。18時半をまわればすっかり夜のとばりは下りていて、時間の経過と共に外気はいよいよ寒さを増していく。5期を迎えた社会人のためのアカデミア『WaLaの哲学』は、ちょうどその頃開校する。いつも誰よりも早く会場に到着し、朗らかな笑顔には疲労などみじんも感じさせずに現れるのが、エーザイ株式会社 知創部でナレッジクリエーション フェローを務めている高山 千弘さんである。

 知創部とは「社長直轄組織で、知識創造理論を社員全員で日常業務のなかで行いながらイノベーションを興していく部署」であり、エーザイは一企業として “知識創造理論” を徹底してやり抜き、企業活動の範囲も深さも拡大するに至った。“知識創造理論” とは、端的に言えば経営学者の野中郁次郎氏が提唱した組織的に知識を創り出す方法論のことであり、エーザイは“知識創造理論 ”を世界で導入した最初の企業なのだ。

 高山さんが多忙な身でありながら『WaLaの哲学』をサポートするのには、どうやらこの辺りにヒントがあると言えそうだ。


エーザイの “知識創造理論” と“ヒューマン・ヘルスケア”

 「今の資本主義というのが、いわゆる経済合理性だけを追求してきた結果として、人のことはどうでもいい、自分たちの企業が儲かればいい、というような流れに来てしまっていることをとても残念に思う」と、高山さんは警鐘を鳴らす。

 エーザイでは就業時間の1%を患者と過ごすことが従業員に「仕事」として課されていることを知っているだろうか。しかも、「ただ会って、“感銘を受けたな”、“かわいそうだな” などと言っているようではいけない。なぜなら、これはビジネスだから」。要するにビジネスであるからには、「患者様とのふれあいから受けた気づきや想いを現場の知として、患者様の希望が叶うためにどうしたらよいか?を日常業務に落とし込んでいく。それをまた、患者様へフィードバックしていく。ビジネスだからこそ、必死になってやる」。この基本的な考え方は、先に挙げた “知識創造理論” に基づいており、さらにエーザイの企業理念である “ヒューマン・ヘルスケア(hhc” に支えられている。


 東証一部上場の押しも押されもせぬ大手製薬企業であるエーザイであるが、社名に “製薬” とついてないことを、示されるまで気づかなかった。これは、「ヘルスケアビジネスをやっているから。患者様とご家族の喜怒哀楽に共感し、それを理解してベネフィット向上のためにビジネスを遂行する、これがヒューマン・ヘルスケアだ」とし、加えて定款には「利益を追求しない」とも明記されているのだという。「我々が追求する唯一のものは患者様満足、社会貢献であり、結果としての利益に過ぎない」。にわかには信じられない話が続き、面食らってしまうのだが、であればこそ先の、「経済合理性を追求する企業がほとんど」という発言にもうなずける。なぜなら、高山さんこそがこの一見しただけではおよそ信じがたい活動を、患者を起点に据えたソーシャル・イノベーションを、けん引してきたその人だからである。


現代資本主義の犠牲者たちへの “共感”

 「結局、資本主義のなかでそれを徹底するために制度やルールで縛り上げて、目的が利益を稼ぐことになると働く人たちは、 “個”が閉じるという状態に陥ってしまう。そこに合わせなくてはいけないから、会社に来るときも “資本主義に合う人間” になって来る。もちろん、パーソナリティーもそれに合わせたパーソナリティーをまとって来るわけだけど、こんな状態では格差に苦しむ人たちに共感することなどできるはずがない」と、ひと息に語る高山さんの眼光は否が応でも鋭くなる。なぜならこの “共感” が、自分を変え、ひいては社会を変える原動力になると考えているからだ。

(第2回へつづく)

外に承認を得る生き方を止め、自分自身の地図を手に「生きやすさ」を見出してきた齋藤 有希子さん。彼女が考える働く意味、リーダーシップについて聞く。最終回

(1)「人生のなかで、大企業で働くってなんだろう?」大手システムインテグレーター勤務・齋藤 有希子さん

(2)「染まるのをやめて、変えることを選んだ」。大手システムインテグレーター勤務・齋藤 有希子さん

PROFILE
大学卒業後、国内最大のシステムインテグレーターに入社。HR業界のシステム開発に従事し2009年から2年間、中米ベリーズで海外協力隊に参加した。PCインストラクターとして現地の子どもたちと関わるなかで人生観を揺るがす衝撃を受けて帰国。帰国後はプロジェクトマネージャーとしての仕事と、社内人材を対象とするコミュニティマネジメントなどに携わっている。


やりたい仕事は自分でつくれるようになった

 2020年は世界規模で大きく揺らいだ時代の始まりとも言える。コロナ禍によって「仕事はフルリモートになって、仕事もプライベートもコントロールできるようになった。 “自由” って、“自主自立” 、“自分に理由がある” ってことだと実感している」。この、“自由” を選択できる幅が広がったことに今、心から満足を覚えていると言う。「仕事にしても、自分でつくりにいきたい。やりたいと言い続けているとダメと言われることがない今だから、やりたいことの時間配分を自分でつくっていける」。


 きらきらした瞳に情熱を宿して語る齋藤 有希子さんだが、「もちろんまだ追求していきたいことはある。大きなテーマで言うと “いのちを輝かせて生きる” ということ」。このテーマは、前回で触れた社会人のためのアカデミア『WaLaの哲学』の講義のなかで自ら見出したものだ。彼女が得た発見として「生まれてきて命を表現する手段が、“働く” ということなのではないか、と思うようになってきた」。言葉の成り立ちを見つめ、「働く(はたらく)」を分解すると “傍(はた)を楽(らく)にする”、“にんべん(人)が動くこと” すなわち “行動する” と解くならば、「この世界に生きるうえで、広く社会でも顧客でも、同僚でも家族でも、自分の周囲をどう楽にできるか?エンパワーメントできるか?が自分のなかで働くということかな」と言うと少しだけ真剣な面持ちに変わった。


「自分一人」では成立しない、幸せへの思い

 有希子さんの “働くことで、幸せになる” という思いに、周囲の仲間の存在は欠かせない。満足を得るにも自分だけの “楽” では成立しないのだ。

 「関わるみんなを幸せにしたい。その価値観しか知らないので」と、さも当然のように言い切る姿に旧世界のリーダーシップと確実に異なる在り方を感じた。けれど本人としては、「これもひとつの考え方に過ぎなく、従来型の引っ張っていくリーダーシップというのも組織では求められるものだ。反対に自分は、その点で弱さを感じることが多いので、掲げるリーダーシップにおいて目に見える成果が持てていないことが悩みでもある」とあくまでも謙虚だ。

 「もともと自分と違う価値観の人の話を聞くことが楽しくて。だから、“そう来たか!” みたいにワクワクしてしまうところがある」と語り、短期的な成果よりも長期的に見たとき、価値観が違った人たちが「ありがたいことにみんなが助けてくれる。“ 自分の苦手なこと困っていることを相談すると、周りの人達が助けてくれる。本当に周囲に支えられている」と言いながら、「でも、リーダーにズバッと決めてほしい人もいるので、これがただ一つの正解とはまったく思わない」と続けた。あくまで他者の在り方を尊重するのが有希子さんらしい。


働く、暮らすはつながっている

 もう少し有希子さんの求める “働くことで、幸せになる” 道すじについて聞いてみる。

 組織にいると役割やそれに伴う責任がある。「やりたくなくても稼がなくてはいけない。でもそればかりだとサステナブルではないので、今までは、仕事とはそういうものだとそればかりに集中してきたせいで、どんどん疲れて燃焼してしまった」。働くことは生活の糧を得る手段(ジョブ)と、成長や地位や責任のため仕事(キャリア)、社会的な使命感(コーリング)の3つの要素があるのだとすると、「今後コーリングの部分を少しでも増やしていけると満足度が上がると思っている」。


 そのためには自分のなかで [ジョブ・キャリア・コーリング] に紐づく作業の割合や調和を図っていくことが大切で、そうした観点からもコントロールが働くようになった現在は、目標とする道の上にいると言えよう。「正直言うと興味がなくやりたくない業務もあるが、期間や稼働の割合を調整できるようになった。コーリングとやりがい、使命感を感じさせる働く姿に魅力を感じるので、今私はその割合を少しずつ増やしていことを意識している」。

「働くと暮らすは地続きでつながっている」とし、今夢中になっているのは自分の内に向かうこと。好奇心旺盛で行動的な有希子さんなので、一見荒行にも思えるさまざまなワークにも楽しみながら挑戦しているそうだ。「頭ってうそをつくものだから。心と体に聞く時間というか、内面に入っていくことを大切にしている」。自分に向き合うなかで、自然、身体、精神への興味が深まり、「人間が生態系の一部ってことを想定すると、その中にいる人間として、どうあるか?ということに興味がある」と言って、これから挑戦してみたいさまざまなことを、さも楽しくてたまらない!というように語る姿がとてもまぶしく映った。


その時そのとき、ひたすら真摯に向き合い自分の答えを出しながら生きてきた有希子さんが紡ぐ言葉は、しなやかな強さがあります。「関わる人の幸せあってこそ」とする働き方が組織をどう変えていくのか、興味は尽きません。

(1)「人生のなかで、大企業で働くってなんだろう?」大手システムインテグレーター勤務・齋藤 有希子さん

(2)「染まるのをやめて、変えることを選んだ」。大手システムインテグレーター勤務・齋藤 有希子さん