(2)競争から共創を知り、「私が一番貢献できる場所、それは日本だった」。東 千恵子さん

オーストラリアやメキシコで学び経験してきた科学的理論に加え、サステナビリティを社会に落とし込む方法を学ぶためにスウェーデンにきた東 千恵子さんの生き方とは。全3回

PROFILE東 千恵子さん。ジェームスクック大学大学院理学部修士、ブレーキング工科大学大学院サステナビリティ戦略とリーダーシップ修士、アクションラーニング協会認定コーチ。
メキシコの環境ソーシャルビジネス「シエラ・ゴルダ環境グループ」の環境教育オフィサー、「地球を巡る学びの船旅をつくる、ピースボート」企画部国際コーディネータ等を経て、一般社団法人Happier Businessを設立。世界的環境活動家で著名な生物学者デビッド・スズキ氏、「ティール組織」著者のフレデリック・ラルー氏、オーストラリア緑の党党首ボブ・ブラウン氏の通訳をはじめ、国際環境会議での同時通訳など、通訳としても活躍している。



「自己組織化」を体現していく実践での学びから共創へ

 「参加型で1講義50分というスタイルは、スウェーデンだけでなくオーストラリアでも同じだった」。国籍、年齢もさまざまな生徒たちは、サステナビリティへの知識の有無もさまざま。ビジネス経験がある層が多数派で、他には「サステナビリティを学びたい」といった人たちが集まっていた。理論と実践を重んじるアプローチでは、実践の内容は実に多彩。たとえばいきなりたいした説明もなくプロジェクトが始まって即席チームが組まれ、短い時間で課題をクリアするものなど、その流れは課外授業においても同様だった。留学生たちをサポートするインフラが整えられていないことがあったのだが、これには驚くべき理由がある。「自分たちで自主的に組織化して行っていく、という流れにするためにあえてそういう余地を残していた。つまり、あえて整えていないというわけ」。生活すること、生きることにまで学びの過程を伴わせる、本気の実践と呼ぶにふさわしい印象だ。

 専攻したプログラムは、地球を自己組織化する有機体、システムとしてとらえていて、そのなかで持続可能な社会を実現するためには人間も競争ではなく自己組織化し協同していくことが大事だ、ということを軸に置いたものだった。「生徒たちも自分たちで自己組織化していくことになる」。かつてオーストラリアで自然のことを学んでいても、やはりそこはアカデミックな世界でそれなりに競争もあれば、物の見方もクリティカル。論文や仕事に対してもクリティカルにものを見る世界であり、自分自身も競争社会に生きてきたけれどもスウェーデンでは「共創だよ、競争じゃなくて一緒につくればいいんだよ、と言葉だけでなくやり方も教わって、世界が180度変わった感覚があった」


居心地の良い場所で自分が貢献できることはない

一緒につくればいいのだと知ると「だから多様性は強みになるのか、とわかった」。それを実感して千恵子さんは帰国する。ここでつい、こんな質問をした。「その日々は居心地が良かったはず。どうして日本に帰る気持ちになったのか?」と。すると、「そう、居心地が良かったのに帰ってきた。このことは実は、すごく考えたことだった。居心地がいいということは、“そこに私がやることはないな”ということだと思った」。さらに、「助けが必要と言うと変だけど、私が一番貢献できそうな場所、それは日本だと思った」と続けた。この選択ができるのは、相当にタフな人であることを物語っている。

帰国の手段は「また通訳ボランティアをしながら船で帰ってきた」。1000人ほどの乗客のうち、10代~40代が30%ほど、多くは年配の方々で、国際交流をしながら現地の暮らしぶりなどを学び船旅を続けた。2ヶ月でさまざまな国を巡り、2010年も終わりに差し掛かる頃、千恵子さんは日本の地を踏んだ。


東日本大震災でスリランカ政府の災害支援チーム担当通訳に

帰国して見渡せば、同級生たちはサステナビリティ・コンサルタントとして起業しており、千恵子さんもその方向で考えていた。けれど、日本企業での特別な勤務経験もなかったので「待てよ?なんの取っ掛かりもないな、どうしていこう」と考えていたまさにそのとき、東日本大震災が起こった。この未曾有の大災害は、日本社会におけるある意味での分岐点となったと言えよう。環境や自然、それらあっての日々の生活、そんな社会に生きることに、まるで初めて人々は向き合うかのような事態を体験した。海外に暮らすことの方が多かった千恵子さんが、震災のタイミングに日本にいたことも必然のように思えてくる。

当時、世界各国からピースボートのボランティアが被災地に支援に来ており、ボランティアチームのバイリンガル・リーダーとして奮闘していた千恵子さんだが、その後スリランカ政府の災害支援チームの通訳を務めることになる。そこには、縁の不思議を感じさせる経緯があった。

 2004年末に起きたスマトラ島沖地震では、スリランカ津波を引き起こし甚大な被害をもたらした。このとき受けた日本の支援にスリランカ政府は恩返しをしたいとの思いから、東日本大震災が起こると、日本のために災害支援省を設立し専門家による支援チームを日本へ派遣したのだ。しかし当時、混乱を極める状況下にあって各国から来る支援チームの受け入れを政府がストップしており、スリランカ政府の災害支援チームの受け入れがピースボートへ引き継がれた。ここで千恵子さんが通訳として選ばれたのだった。

第3回へつづく

River

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